金貨や銀貨で、時価数百万円から最高10億円近いお値打ちものの埋蔵金が見つかった例が、太平洋戦争後だけで約50件あります。 大判・小判がザクザクという話は非常におめでたいものですから、大量発見があったときは新聞などで大きく報道され、全国的な話題となっています。ただ、そのすべてが工事中などに偶然見つかったもので、トレジャー・ハンターが“掘り当てた”例が1つも公表されていません。 では、“掘り当てた”人がまったくいないのかというと、そうでもなさそうです。私の師で、日本の埋蔵金研究の第一人者だった故・畠山清行先生は、「昭和30年代から40年代にかけての10年間(このころが偶然の発見例も最も多かった)に、私のところに発見の報告があったものは100件をこえた」と言っていました。先生の本を参考にして、見事に掘り当てた人も2人いたそうです。なぜ掘り当てても届け出ないのか。それは、日本の法律が発見者にとって非常に不利になっているからです。他人の土地の中で見つけた場合、発見者の取り分はよくて半分なのです。だから、多くの人はネコババをきめこんでいるのですね。なお、埋蔵金に関する法律については別のコーナーで解説しています。 では、発見例(公表されたもの)のいくつかを写真でご紹介しましょう。 ★豪商・鹿島清兵衛の埋蔵金(過去最高の発見例)
総計は、天保小判1900枚と、天保二朱金約78000枚。発見当時でも、時価6000万円といわれていましたから、今だったら10億円近い額になるでしょう。これは文句なしに、過去最高の埋蔵金発見例です。 その後の調べで、この金貨は、江戸時代の半ばから200年間以上、この地で大きな酒問屋を営んでいた豪商・鹿島屋の先祖、9代目鹿島清兵衛が埋めたものだということがわかり、その子孫に返還されました。 ★小松ストアーの埋蔵金(話題性ではナンバーワン)
★最上川で見つかった小判 1961(昭和36)年の夏、山形県西置賜郡白鷹町の最上川で、箱めがねを使って魚とりをしていた小学生が、川底にあった1枚の小判を拾いました。うわさを聞きつけた人がどっと押し寄せ、それから半月ほどの間に、文政小判23枚をはじめ、文政二分金9枚、文政南鐐二朱銀358枚が見つかったのです。それは初め、発見者がそれぞれ保管していましたが、町が文化財に指定して一括保存することになり、現在は白鷹町役場の出納室の金庫に眠っています。 天保年間に、この近くの船着き場で誤って川に落ち、おぼれ死んだ飛脚がいたそうで、川底に沈んでいたのは、この飛脚が商人に頼まれて届ける途中のお金だったようです。彼が持っていたのは金80両。見つかったのは合計72両と1分。ということは、あと7両と3分がまだ川の中? (写真は白鷹町役場所蔵の23枚の小判) ★ぶどう畑から出た甲州金 1971(昭和46)年、山梨県東山梨郡勝沼町(現甲州市)の観光ぶどう園で、ゴミ捨て用の穴を掘っていたところ、地下から金色に光るものが出てきました。それは、水草のヒルモに似た細長い楕円形の「ひるも金」2枚と、古いタイプの甲州金18個。どちらも金の純度が高く、希少価値もあり、1枚数百万円します。そのほか、渡来銭(中国から輸入した銅銭)が約5000枚も見つかっています。 この近くには、中世、武田氏の一族だった勝沼氏の館の跡があるので、同氏が隠していた軍用金の一部ではないかといわれています。なお、この金貨は2011年に山梨県立博物館が約1億円で買い取りました。 (金貨は山梨県立博物館蔵 撮影/野澤公次郎氏) |
■昭和30年代の東京のゴールドラッシュ 小松ストアーから始まって、日清製油の鹿島屋の埋蔵金を頂点とする昭和30年代に、工事ラッシュの東京都内だけで、ほかに8件の金銀貨の発見例がありました。 ◆浅草で見つかった一分銀 1957(昭和32)年6月8日、台東区浅草菊屋橋2の5、第一信託銀行菊屋橋支店の建築工事現場から、天保一分銀1086枚が見つかった。この貨幣は1枚の重さが8.66グラムで純銀に近い。現在の価格でみると、総額は434万円から869万円。所有者は現れず、発見者と土地所有者に現物を折半して譲渡された。 ◆数寄屋橋から元文小判 1957年8月6日、中央区銀座西4の3、富士銀行数寄屋橋支店の建築工事現場から、元文小判68枚が見つかった。現在の価格は総額1360万円から2720万円。所有者は現れず、発見者と土地所有者に現物を折半して譲渡。 ◆地下鉄工事現場から小判 1959(同34)年12月12日、台東区御徒町3の21近くの営団地下鉄の工事現場から、小判3枚が見つかった。所有権者は現れず、文化財保護委員会で保管。 ◆神田で見つかった一分金 1960(同35)年3月20日、千代田区神田富山町24、岡崎ビル建築工事現場から、元文一分金41枚が見つかった。総額74万円から164万円。所有権者は現れず、発見者と土地所有者に現物を折半して譲渡。 ◆芝で慶長一分金320枚 1963(同38)年4月27日、港区芝西応寺町48、万才自動車ビル建築工事現場から、慶長一分金320枚が見つかった。慶長一分金は、江戸、京都、駿河の3カ所でつくられており、時価が少しずつ違うが、総額4800百万円から1億1200万円と推定される。所有権者は現れず、発見者と土地所有者に現物を折半して譲渡。その後、土地所有者(株式会社バンザイ)が発見者の分を買い取り、すべてを保管。 ◆目黒で金貨4600枚 1964(同39)年1月、目黒区内で行われていた水道工事の最中に、二朱金、一分金など4609枚が見つかった。詳細は不明。
1964(同39)年3月25日、江東区有明2丁目の海岸の埋め立て地(現在の有明コロシアム周辺)で、中学生がゴミの中から15枚の慶長小判を見つけた。大騒ぎになって、近くの人たちが押し寄せ、小判掘りに熱中した。中には弁当持参で一日中掘りまくる人も。その甲斐あって、1週間後に13枚が、翌月に7枚が発見され、合計35枚になった。総額は今なら4500万円から1億円になる。 なお、それから7年前の1957(昭和32)年にも、現在の江東区潮見の埋め立て地で数枚の元文小判が見つかっており、そのうちの2枚と慶長小判8枚は、現在、東京都港湾局の所蔵となっている。この10枚をテレビ東京の人気番組「開運!なんでも鑑定団」に出したところ、総額1650万円の評価を受け、「21世紀に残したいお宝」として「殿堂入り」することになった。 ◆練馬で小判27枚 1964年8月、練馬区で小判27枚が見つかった。詳細は不明。 ■その他の発見例 ◆七里長浜にうちあげられた小判(青森県) 1948(昭和23)年、青森県西津軽郡車力村(現つがる市)の七里長浜の海岸に、14枚の小判が打ち上げられた。これは、1821(文政4)年に、南部藩の船が金、銀、銅を積んだまま、同郡深浦町の沖合で沈んだという記録があるので、この船のものと思われる。大正初年に深浦沖の海底で小判3枚が、また、1955(昭和33)年にも近くの海底で30キロもある銅板2枚を拾った人がいるので、ほぼまちがいないだろう。 ◆伊豆大島のゴールド・ラッシュ(東京都) 1957(昭和32)年2月、伊豆大島の岡田の漁師が、カツサキ浜の沖合の水深15メートルの海底で、小判8枚を拾った。うわさはぱっと広がり、島の漁師たちの間でゴールド・ラッシュが巻き起こった。最終的に海底から引き揚げられたのは小判90枚、一分金43枚に達した。総額で時価2000万円は下らないものと推定される。大島付近で沈没した船で、小判を積んでいたと伝えられるのは、1663(寛文3)年2月に沈んだ津の「功天丸」、1705(宝永2)年の宇和島の藩船「第二伊予紋丸」、1737(元文2)年の「明神丸」の3隻があり、このうちのどれかのものと思われる。 ◆宝珠花のゴールド・ラッシュ(埼玉県) 1957(昭和32)年の8月、埼玉県北葛飾郡庄和町(現春日部市)宝珠花の江戸川の川べりで、1枚の二朱金が見つかったことが発端となり、 「河原に金が埋まっている」といううわさが広まって、村中総出での宝探しとなった。すると、一分金、二分金、一朱銀、小判などが次から次に見つかり、1週間で総額550両に達した。以前にも3回ほど、千両箱や金貨が発見されたことがあったとか。 ◆たんぼから出た享保小判(新潟県) 1957(昭和32)年12月8日、新潟県中魚沼郡川西町(現十日町市)室島のたんぼの中から、壷に入った享保小判37枚と一分金2枚が発見された。小判だけで、今なら2000万円から3300万円の価値がある。埋蔵文化財に指定され、うち1枚は川西町歴史民俗資料館に展示されている。 ◆桃の木の下から出た慶長小判(長野県) 1958(昭和33)年の春、農家の人が長野県小諸市乗瀬の畑を耕していたところ、土手ぎわにある野桃の木の根元に埋まっていた慶長小判6枚を発見した。時価1000万円以上の価値はあると思われる。 ◆鳥海山麓の埋蔵金(秋田県) 1959(昭和34)年8月、鳥海山の麓の秋田県由利郡象潟町(現にかほ市)横岡の畑から、高さ20センチ、直径15センチの白磁の壷が出土。中には小判70枚と一分金80枚が入っていた。戊辰戦争当時に、旧地主の村上氏の先祖が埋蔵したものではないかと推定される。 ◆岩本家の埋蔵金(三重県) 1959(昭和34)年10月、三重県多気郡明和町の農業岩本為之丞さんが、自宅裏のヤブの中の地下80センチのところから、慶長小判15枚を掘り出した。当時は総額で時価180万円とされたが、現在は1枚で最低130万円する。同家の先祖が埋めたものらしい。 ◆佐々木家の埋蔵金(宮城県) 1960(昭和35)年の春、宮城県栗原郡若柳町の農業佐々木麟児さんが、母屋の改築のための地ならし作業の最中に、壷に入った江戸時代の銀貨332枚を発見した。時価約16万といわれ、慶長一分銀と発表されているが、一分銀はいちばん古いものが1837(天保8)から鋳造された天保一分銀で、慶長のころの銀貨というと、丁銀か豆板銀しかない。時代か種類にまちがいがあると思われる。同家は15代も続いた旧家で、何代か前の先祖が埋めておいたものらしい。 ◆森田家の埋蔵金(埼玉県) 1960(昭和35)年5月5日、埼玉県大宮市(現さいたま市)膝子の旧家森田家の14代目森田健二さんが、かつて蔵があったところに植えられていた植木をいじっているときに、地中から小判107枚、一分金66枚を掘り出した。同時、時価170万円相当といわれた。今だったら2000万円は下らないと思われる。 ◆古井戸から出た埋蔵金(群馬県) 1961(昭和36)年3月、群馬県館林市上三林の川島さんは、自宅裏の古井戸の底から高さ21センチ、直径18センチの円筒形の素焼きのカメを見つけた。中には元文小判185枚、二分銀1枚が入っていた。現在の価格で3700万円から7400万円の間か。その竹ヤブは、かつて「柳戸大尽」とよばれた長者の屋敷跡だったという。 ◆高石の埋蔵金(大阪府) 1963(昭和38)年9月、大阪府高石市で丁銀43本が掘り出された。年代がはっきりしないが、丁銀は元文(1736年)以降のものは1本5、6万円から高くても16万円程度だが、それ以前のものは数百万の値がついているから、かなりの値打ちものと想像される。 ◆京都の商人の埋蔵金(京都府) 昭和30年代ということで、詳細は不明だが、京都市上京区千本通りの聚楽第跡で水道工事の最中に、慶長小判7枚、同一分金20枚が見つかった。時価90万円となっているが、今なら最低1200万円にはなるだろう。場所が場所だけに、豊臣氏関係のものではないかとうわさされたが、時代的に秀吉との直接的な関係はない。江戸時代の商人のものだろう。 ◆岩泉の埋蔵金(岩手県) 1963(昭和38)年10月、岩手県下閉伊郡岩泉町で、一分金3890枚が発見された。 ◆検事正公舎から出た小判(新潟県) 1964(昭和39)年10月、新潟市旭町(現水道町)の新潟地方検察庁の検事正公舎の庭の松の木の根元から、元禄小判1枚をはじめ、全部で13枚の小判が出てきた。 ◆宇都宮の埋蔵金(栃木県) 1966(昭和41)年4月、栃木県宇都宮市で、二分金など計537枚が発見された。 ◆喫茶店の地下から中判小判がザクザク(東京都) 1966年8月6日、東京都千代田区富士見町の喫茶店の改築工事現場で素焼きの壷が見つかり、中から天保五両判6枚と天保小判101枚が出てきた。当時の報道では時価約1000万円とあるが、現在、五両判は1枚160万円から300万円、小判が18万円から27万円するから、総額ではだいたい2800万円から4500万円することになる。東京のどまん中での埋蔵金発見だったこともあり、大きなニュースとなった。 ◆谷家の埋蔵金(奈良県) 1967(昭和42)年10月15日、奈良県北葛城郡王寺町本町の旧家谷甚四郎さん方で土蔵を改築していたときに、床下から直径43センチ、深さ1メートルもある古丹波焼の大きな壷が出てきた。中には、享保大判が1枚、中判(天保五両判金)が1枚、そして、正徳、享保、元文、文政、天保などの小判が50枚入っていた。そのほかに、一分金や豆板銀といったものもあり、当時、総額1億円とうわさされた。 ◆東大前から出た小判(東京都) 1971(昭和46)年12月23日、東京都文京区本郷6の22、東阪神点灯会社の駐車場建設工事現場から小判がザクザク出てきた。工事の作業員が小判27枚と二朱金9枚を台東区池之端の本富士警察署に届け出て鑑定してもらったところ、小判は文政小判で、当時四万円するものであることが判明。ところが、埋まっていたのはそれだけではなく、少なくとも100枚はあったはずだとうわさされた。現場に入り込んできた通行人などが、探し出したやつをそのまま持ち去り、ネコババをきめこんでしまったらしいのだ。その後、正直に警察に届け出る者もいて、最終的には小判55枚が集まった。今だったら最低でも1000万円にはなるだろう。 ◆万蔵寺の埋蔵金(埼玉県) 1973(昭和48)年1月、埼玉県入間郡越生町大字上野字満山にある万蔵寺の下堂の屋根のふき替え工事の際に、梁の上から木綿の胴巻きのようなものが落ちてきた。その中には、鹿皮の包みに入った文政小判と一分銀が109枚があった。時価500万円といわれた。 ◆銀行の新築工事現場から小判が96枚(大阪府) 1974(昭和49)年2月14日、大阪市南区日本橋1丁目の北陸銀行大阪南支店の新築工事現場から、江戸時代末期の文政小判が96枚、同一分金、二分金が合わせて243枚掘り出された。当時は約3000万円相当といわれていたが、現在では4000万円近い額になるだろう。 ◆柏木家の埋蔵金(長野県) 1974年5月、長野県小諸市一ツ谷区の旧家柏木家の旧宅を取り壊していたときに、寝室の床下付近から茶碗が掘り出された。中には、文政小判15枚、一分金10枚、文政豆板銀15枚、寛永通宝1枚が入っていた。時価400~500万円と推定される。 ◆浅草のビル工事現場から金貨2200枚(東京都) 1974年6月13日、東京元浅草のビル工事現場から、昔の金貨がぎっしり詰まったガラスびん3本が掘り出された。江戸時代末期のもので、二分金が約600枚、二朱金約1600枚で、合計2200枚ほど。時価1300万円と鑑定されたが、現在では2000万円を軽くこえる。 ◆文京区の埋蔵金(東京都) 1975(昭和50)年1月18日、東京都文京区内の民家の庭先で、天保一分金4枚、安政二分金11枚、天保二朱金67枚など、合計154枚が掘り出された。時価165万円と報道されている。 ◆小学生がけとばした壷から金貨がバラバラ(秋田県) 1976(昭和51)年9月27日、秋田県横手市羽黒町の市立南小学校の児童が、学校の裏山で遊んでいるときにけとばした壺から、江戸時代初期から中期の慶長、正徳、享保の一分金、合計104枚が出てきた。当時の取り引き価格から、総額で2000万円以上の価値があるといわれた。現在では、慶長一分金が1枚15万円から35万円、正徳になると最低でも80万円する。享保は5万円から10万円程度。 ◆例弊使街道の千輝家の埋蔵金(群馬県) 1978(昭和53)年3月10日、群馬県佐波郡玉村町上新田の民家の地下から、江戸時代の金貨、銀貨が大量に見つかった。24枚の二分金をはじめ、二朱金が7枚、一分銀が2405枚、一朱銀が780枚、合計3216枚で、総重量は約22キロ。当時の新聞は時価1300万円相当と報道している。 ◆深谷の大地主・斎藤家の小判(埼玉県) 1979(昭和54)年2月7日、利根川に近い埼玉県深谷市中瀬字延命地の旧家・斎藤家の屋敷跡から、カメに入った元文小判489枚が出てきた。当時、総額1億円といわれた。 ◆西伯町の埋蔵金(鳥取県) 1980(昭和55)年1月中旬のこと。鳥取県西伯郡西伯町(現南部町)の民家の庭から4枚の元文小判が見つかった。そこは、賀祥ダムの建設によって水底に沈むため、下流の方に家を新築し、植木屋さんに頼んで庭木を新居に移そうと、高さ3メートルほどのサザンカを掘り起こしていたところだった。木の根元に河原石が1個置いてあり、その下30センチほどのところから小判が出てきた。 ◆蓮光寺の埋蔵金(滋賀県) 1986(昭和61)年3月1日、滋賀県近江八幡市加茂町にある天台真盛宗の蓮光寺で、庫裏の建て替え工事をしていたところ、古い庫裏の礎石の下30センチほどのところから、高さ72センチの白磁の壷が出てきた。中には、文政小判60枚と同一朱金157枚がぎっしり。鑑定の結果として、時価千数百万円と発表されているが、現在は最低でも2000万円はするだろう。 ◆壁に埋め込まれていた一分銀(岡山県) 1990(平成2)年8月、岡山県笠岡市吉田の旧家の土壁の中から、江戸時代の銀貨が見つかった。家の人が庭の掃除をしていたときに、母屋の居間の外側にある戸袋の下から、古銭の一部がのぞいているのが見えたので、その部分の土壁を掘ってみると、30センチ四方に天保一分銀42枚が埋められていた。現在の価格は普通品で1枚4000円から8000円の間。 ◆豪農の屋敷跡から小判や明治金貨(富山県) 2002(平成14)年3月、富山県小矢部市の豪農の屋敷跡から、カメに入った金貨・銀貨が掘り出された。小判12枚、二分金686枚、一分銀404枚、二朱金92枚、それに明治初期の10円金貨46枚で、少なくとも時価3900万円の価値があると伝えられた。 ◆お寺の境内から小判38枚が出土(埼玉県) 2002年7月29日、埼玉県長瀞町にある光明寺というお寺の境内で行われていた配水管の埋設工事中に、カメに入った小判38枚が見つかった。小判の種類が発表されていないので、時価は不明。 |