■高校1年の5月、初めての上京。東京駅で川端康成に遭遇
 ぼくが初めて東京に行ったのは昭和38年5月、高校に進学して間もないころでした。学校が休みでもないのに、1週間も東京に滞在したわけは、あわよくばタダでヨーロッパまで行ってやろうと目論んだからです。後にぼくが大学を出て就職することになる学習研究社が、「中学コース」「高校コース」という雑誌の読者の中から、それぞれ男女2名ずつの記者を募集し、海外に派遣すると発表しました。ヨーロッパだけでなく、香港、バンコク、ニューデリー、テヘラン、イスタンブールなど、アジアや中東諸国も訪れ、現地の同世代の若者と交流し、雑誌でレポートするのです。ぼくはそれに応募しました。
 一次選考は作文で、テーマは「私の行きたい国」。ぼくはイタリアを選びました。ローマオリンピックが終わった後でもあり、古い歴史をもつイタリアに憧れていたからです。めでたくこれを通過、二次選考の書類審査(学業成績)を経て、最終選考が東京で行われることになり、ぼくは熊本から特急「みずほ」で18時間かけて上京しました。母親同伴で、その費用も主催社もちでした。
 東京が近づくにつれて、なんだか不安のほうが大きくなってきました。静岡県から神奈川県に入り、多摩川を越えて東京の大田区へ入ると、沿線の風景が汚く見えて、あまりいいところに来たとは思えなかったのです。しかし、東京駅が間近に迫ってくると、見たこともない高いビルの間から皇居の緑がのぞき、少しだけワクワクしてきました。そして、丸の内側のタクシー待ちの列に並んだときです。3人ほど前の男性の後頭部に見覚えがありました。白髪交じりのオールバック、着ているものはといえば和服。まちがいありません。ぼくは素知らぬふりでそっと脇に歩を進めて、その人物に近づくと、横目でチラリと眺めて、すぐ列に戻りました。もちろん、母親に耳打ちしました。
(スゲー、やっぱり東京はスゲーところだ。生川端に会えるなんて!)
 ぼくの胸は感動でいっぱいでした。海外派遣記者の選考のほうは、最後の8人までに残り、結局、高校男子の補欠になりましたが、実際に行くことはできませんでした。それよりも、ぼくの中では、生川端康成との遭遇のほうが大きな出来事でした。

■高校の修学旅行は、オリンピックが終わった直後の東京
 翌年の秋、高校2年で実施される修学旅行のコースは、伝統的に決まっていました。専用列車で熊本駅を出発し、小田原で下車してまず箱根で1泊。バスで鎌倉を経由して東京に入り、1泊した後に日光まで足を延ばし、帰りに東京でもう1泊して帰途につきました。車中泊が2泊ありますから、6泊7日といういまでは考えられない長丁場でした。
 アジアで初めての東京オリンピックが終わってから2週間ほど後のことで、東京の町は前年来たときよりもゴミゴミしている感じがしました。それでも、テレビで見たばかりの国立競技場、日本武道館、代々木体育館などの施設を訪れて、オリンピックの余韻に浸りました。とくに、柔道会場となった武道館では、神永とへーシンクの激闘のシーンがよみがえり、身震いするほどでした。2年後にここでビートルズのコンサートが開かれようとは、夢にも思いませんでした。ぼくの中では、ここはあくまで柔道や剣道など、日本古来の武術の技を競い合う神聖な場所でした。
 東京タワーは完成から6年たっていました。元気いっぱいのぼくはエレベーターに乗らず、展望台まで階段を駆け上がりました。さすがに息が切れましたが。
 日光からの帰りの東京泊の際に、夕刻、自由時間が設けられました。生徒の中には、東京にいる身内が案内をするために迎えに来てくれる者もいました。旅館は行きも帰りも本郷にある古い旅館で、成績のいい連中は東京大学の構内に入り、黄色く色づいた銀杏の葉を拾ってきました。ここを受験するときのお守りにするのでしょう。でもぼくは、オリジナルのコースを設定し、これにのってきた3人の友人と行動を共にしました。
 まず訪ねたのは、御徒町のアメヤ横町です。お目当てはミリタリーショップ中田商店。けっして戦争マニアではなかったのですが、便利なものが安いという点が魅力で、なによりも、漫画雑誌の広告ページに載っていた熊本には存在しないスタイルの店を、のぞいておきたかったのです。何か買ったかどうかは覚えていません。
東京タワーの展望台から見た東京の街並み(北側)高いビルはほとんど見えない。
 御徒町からタクシーで新宿へ向かいました。電車で行かなかったのは乗り換えが面倒だったからなのでしょうが、高校生の分際でなんと生意気だったこと。目的の場所は、歌舞伎町の音楽喫茶「ラ・セーヌ」。どこでどうやって調べたのか、記憶にありませんが、坂本九ショーを見るためでした。制服に制帽での行動ですから、さほど不健全な場所ではなかったのは確かです。「上を向いて歩こう」の大ヒットから3年、ジュースを飲みながら生でそれを聞くことができたのは、修学旅行のハイライトでした。
<関連画像> ・新宿ラ・セーヌのパンフレット

■2回目の東京オリンピックについて
 
1964年の東京オリンピック・パラリンピックは文句なしに大成功でした。昭和30年代は国民の多くが等しく前向きに生きていた時代。戦後の復興を成し遂げ、これから先進国の仲間入りをしようという気概に燃え、五輪はその大きな足がかりとなる一大イベントでした。国全体を1つの機械にたとえるならば、各部の歯車がうまく噛み合ってエネルギーを伝達し、作用のベクトルが一方向にまとまっていたのです。
 ところが、平成に入って20年がたつかたたないころ、2回目の五輪を東京に誘致しようという話がもち上がりました。言い出しっぺは当時の東京都知事です。かなりのお金を使って運動をしたようですが、2016年はリオに決まって誘致に失敗します。それが2009年のこと。そして、2011年3月に東日本大震災が起こります。すると、そのわずか2か月後、まだ被災地の人々が日々を生きていくのが精一杯のときに、同じ都知事が2020年の五輪開催に向けて再度立候補しようと言い出しました。それが被災地の復興のために大きな力になると考えたようです。中にはそういうふうに受け取る人もいるかもしれませんが、大半はそれどころではないはず。直接被災した人だけでなく、この大災害の影響は日本全体に及び、まずはどのように日常を取り戻すかが喫緊の課題でした。
 都知事は運だけで作家になり政治家にまでなった人で、ご苦労知らずのお坊ちゃん育ち。庶民感覚のない人でした。しかし、周りの後押しもあって誘致計画はどんどん進み、ついに2013年に2020年の東京開催が決まってしまったのです。前の東京五輪開催当時の国の雰囲気を味わっているぼくとしては、まるで状況が違うこの時期に日本で開催することの無謀さにあきれ果ててしまいました。
 その後、まるで誰かが意図的にこれを妨害しているかのごとく、さまざまな問題が巻き起こったのはご承知の通りです。メインスタジアムの設計、エンブレム、JOC会長の贈賄疑惑、酷暑の時期に開催する無謀さを心配する声、そして新型コロナウイルスによる延期と組織委員会会長の問題。これらがすべてなかったとしても、ぼくは最初から誘致すべきではなかったと、これを書いている2021年2月12日現在も考えています。
 そもそも、あまりにも商業主義化した五輪に嫌悪するのはぼくだけではないはずです。ここらで頭を冷やして、オリンピック・パラリンピックのあり方を一から考え直したらどうでしょうか。ちなみにぼくは前の東京五輪の聖火リレーの伴奏者候補(最終的には選外)で、スポーツ観戦が3度の飯より好き。できることならこのスポーツの祭典をいつかは生で見たいと心から願っています。

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