■転校、そして祖母の死
 映画「ALWAYS・三丁目の夕日」(第1作)で描かれたのは、昭和33年の東京でした。観る前にそれを知って「ええっ」と思いました。ぼくにとっても忘れられない出来事の多かった年だからです。
 まず、小学校5年の春に転校しました。新しい学校は熊本大学教育学部附属小学校。姉2人は、地元の小学校から同附属中学校へ進学しましたが、団塊の世代のぼくのときは入学試験が相当難しくなるにちがいないと親が心配して、優先的に入学できる小学校への編入試験を受けさせ、なんとか潜り込むことができたのです。2歳下の弟も、いっしょに転校することになりました。それまでは家から歩いて5分ちょっとで学校に行けたのに、電車を乗り継いで1時間近くかけて登校しなければなりません。生活がガラリと変わりました。クラスメイトも、それまでとはタイプの違う、“町の子”たちばかり。同じ熊本市内でも、町中と周辺部ではなにかにつけてちがうのです。
転校した小学校には、自家用車のある家の子もいた。運転手さんつきでドライブに連れて行ってもらったこともあった。
 編入試験に合格したことを、母は病床にあった祖母に伝えました。祖母が弱々しい声で「よかったなあ」というのを、ぼくは母の脇で聞いていました。その祖母はとうとう6月に亡くなりました。65歳でしたから、当時でもまだ若いほうです。同居していた父方の祖母はすでに80歳を過ぎていましたが、このころはまだ元気でした。生まれて初めての身内の葬式は戸惑うことばかりでした。
 話は前後しますが、祖母が入院していたのは大学病院でした。転校前の春休み、家にはまだテレビがなかったので、選抜高校野球の中継を、病院の食堂で見ました。熊本からは2校が出場していて、ともにベスト4に残りました。前年の大会の覇者で王貞治投手のいる早実を破った済々黌と熊本工業です。この2校が準決勝で対戦しました。最初の組み合わせでは、準決勝でぶつかることはなかったのが、決勝が同県同志ではまずいということになって、変更があったと聞きました。結果は5対2で済々黌の勝利。決勝では済々黌が強豪の中京商業(現中京大中京)を7対1と一方的に下しました。県勢としては夏春を通じて初めての甲子園制覇で、地元は大いに沸きました。とにかく準決勝と決勝を病院のテレビで見ることができたのはラッキーでした。(第30回選抜高校等学校野球大会の詳細 

■長嶋選手がデビューし、新しい時代を迎えたプロ野球
 野球といえば、この年、長嶋茂雄選手がプロデビューしました。東京六大学の本塁打記録を塗り替え、鳴り物入りで巨人軍に入団、開幕から3番サードで全130試合にフル出場しました。国鉄の金田正一投手との初の対戦で、4打席連続空振り三振するなど、さまざまなエピソードを残し、終わってみれば、本塁打王と打点王の二冠に輝き、打率も2位でした。もうちょっとでリーグ三冠王です。成績を細かく見ると、最多安打、最多二塁打、最多塁打、最多得点、おまけに盗塁も37個で2位でした。後にも先にも、新人の野手でこれだけの成績を残した選手はほかにいません。もちろん、満票で新人王に選ばれました。この年から、野球少年は背番号3に憧れ、銭湯の下駄箱の番号札なんかも、誰もが先を争って3番を手に入れようとしました。
 その年の日本シリーズがまたたいへんなことになりました。長嶋選手の活躍で巨人がセ・リーグを制覇、パ・リーグは西鉄が優勝しました。そして迎えたシリーズは、巨人が3連勝して、西鉄は崖っぷちに立たされます。すると、1、3戦目に先発した稲尾和久投手が、4戦目にも登板して勝利を収め、5戦目は自らサヨナラホームランを打って勝ち、勢いに乗って、6、7戦目でも登板、勝利投手になりました。歴史に残る西鉄の奇跡の逆転優勝です。入団3年目の鉄腕稲尾投手は「神様、仏様、稲尾様」とファンに称賛されました。
 最終7戦目が行われたのは、工場見学で福岡の久留米へ行った日でした。帰りのバスの中でラジオを聞きながら大騒ぎしました。クラスの中で1人だけ熱心な西鉄ファンがいましたが、大半は巨人ファン。なぜならば、巨人の4番に座るのは、「打撃の神様」といわれた郷土の誇り、川上哲治選手だからです。その川上選手は、逆転負けした日本シリーズが終わったあと、引退を表明しました。そし
昭和33年の秋に野球のユニフォームを買ってもらった。写真でユニフォームを着ているのは弟だが、ぼく(後列右)ももちろん持っていて、学校の野球部に入った。
て翌年、代わって巨人軍の一塁を守ることになったのが、背番号1番の王貞治選手です。王選手は、長嶋選手のように最初から大活躍したわけではなく、3年間は低迷していました。三振が多く、相手チームのファンから「王、王、三振王」とやじられるほどでした。
 でも、昭和33年と34年に、後に「ON砲」と呼ばれる長嶋、王の両選手が巨人に入団したことで、プロ野球そのものが新しい時代を迎えたといえます。
 ただ、ぼくは今でも熱烈な巨人ファンですが、それには2種類があると思っています。ON以前からのファンと、ONの活躍に魅せられてから巨人が好きになった人たちです。ぼくは前者を「先天的巨人ファン」、後者を「後天的巨人ファン」というふうに分類しています。ぼく自身はもちろん背番号16に憧れた「先天的巨人ファン」です。

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