■いろいろな遊びのできる環境に恵まれた幸せな子ども時代
 自分の子どものころをふり返って、ときどき「なんていい時代を過ごすことができたのだろう」と思うことがあります。あのひどい戦争をじかに体験することはなかったし、戦後、物は豊かではなかったかもしれませんが、飢え死にするほどではなく、何よりもみんなが、今日よりも明日が必ずよくなることを信じ、足並みを揃え、希望をもって前向きに生きていた時代でした。自分の身の回りのことについていえば、子どもにとって大事な遊び場が十分にあったことは、何ものにも代えがたい幸せでした。
 植物や昆虫、魚、野鳥といった生き物と出会える自然に包まれ、チャンバラや戦争ごっこ、そして野球ができる原っぱや空き地もそこらじゅうにありました。刈り入れの終わった秋から冬の田んぼ、田植え前のレンゲ畑となる春の田んぼも、広場と同じでいろんな遊びができました。ですから、理科の教科書で生き物のことを勉強する前に、日々の遊びの中ですでに学習していることが多かったのです。四季の移り変わりを肌で感じ、自然のしくみについても五感を通して大脳に蓄積されていました。
 また、社会の教科書に載っている地域の暮らしや人々の仕事なども、遊び回っていれば自然にわかってきます。近所にはセメント瓦工場や、おもに農機具を作る鍛冶屋、豆腐屋、動物の骨から肥料を作る骨粉工場などがあり、いつでも見学することができました。とくに、練ったセメントを型に入れて成型し、表面に光沢のある粉を刷毛で塗って仕上げる瓦工場の作業は、いつまで見ていても飽きないものでした。また、米屋さんに通帳をもって米を買いにいく時代でしたから、大きな精米機で精米しているところや、そうめんを作っているところも見学できました。家に畳屋さんが畳替えに来れば、終わるまで間近で仕事の様子を見ていました。要するに、第一次産業にしろ製造業にしろ、生産の場と消費の場、つまり日常生活とが、いまよりもずっと近い関係にあったということではないでしょうか。
 いまでも思い出すと笑ってしまうのは、家づくりの手伝いをしたことです。小学校低学年のころ、友達と2、3人で遊んでいると、大工さんだか左官屋さんだかが手招きします。行ってみると、新築中の
昭和30年代の初めまでは、新築の住宅も土壁が多かったようだ。モルタルが普及したのは30年代後半だろうか。土壁に比べて耐用年数が短いのは明らかだった。
まだ骨組みだけの家の前で、土壁の土を練っているところでした。赤土に刻んだ稲わらを散らし、大鍋で煮た布海苔を混ぜます。それを裸足で踏みならして混ぜるのが子どもの役目なのです。というか、遊んでいる子どもをうまく利用して自分が楽をしようという大人の企みだったのです。まんまとのせられました。でも、泥まみれになりながらも、おもしろかったナ。ですから、いまでも土壁の作り方は覚えています。木舞の編み方も記憶に残っています。いずれセルフビルドで田舎に家を建てるときは、絶対土壁にするつもりです。

■本を読むだけでは飽き足りず、お話を作り始めました。
 昭和20年代は、確かに物のない時代でした。外で乗りまくっていたスケーターのほかにおもちゃで遊んだ記憶がありません。もっとも、雨の日以外は家の中で遊ぶことはほとんどなく、必要がなかったのでしょう。姉たちも、家の中での遊び道具といえばお手玉くらいで、すべて祖母や母の手作りでした。
 ただ、父も母も教育者でしたから、本だけはどこかで工面して与えてくれていました。といっても、有り余るほどではなく、絵本などはすべて中身を暗記してしまっていたようで、自分の記憶の中にはありませんが、客が来るとアトラクションとして絵本の暗誦、つまり「語り」をやらされていたと聞きます。
 そのような具合でしたから、小学校に入るころには物語を読むだけでは飽き足りなくなり、作り始めていました。1年生の初めに作った童話は、自分自身のためのもので、製本して大事にしまっていたのですが、親に見つかり、知らないうちに市の作文コンクールに出されて市長賞を受賞し、全国規模の「綴り方コンクール」でも入賞しました。
 算数はどうだったかわかりませんが、小学校で勉強する国語も理科も社会も、ぼくにとっては遊びとの境目があまりありませんでした。新しい知識を得ること、技能を身につけること、そして自分の世界を広げていくことは実に楽しいことです。それが中学・高校と進むにつれて、教室の中、紙の上での勉強の比率が高まり、しだいに遊びとの乖離が始まります。それでも、遊び感覚で勉強もしたいという思いを断ち切れず、ずっとあがき続けてきました。その結果といっていいのでしょうが、大学を出て社会人になったら、今度は仕事と遊びの区別がつけられなくなってしまいました。でもそれを「困ったこと」と思うわけではありませんでした。仕事も自分がやりたいことを楽しくできれば、それに越したことはないはずです。そのことがいかに難しいかは、社会に出れば否応なしに知らされますが、だからといってウジウジしていてはダメだと思って、精いっぱい自分のスタイルを守り通してきました。高齢者の仲間入りをした今でも、そのスタイルを変えるつもりはありません。

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