■ビワの木に登り、おなかいっぱいになるまで実を食べました
 よくもまあ、いろんな実のなる木を植えていたものだと思います。父がその場所に家を建てたのは昭和10年ごろらしいですが、同時に木も植えていたのでしょう、ぼくが子どものころにはみんなちゃんと食べられる実をつけるようになっていました。
 果物の中でイチゴだけは地植えで、いつも一坪ほどは場所をとってあったようです。5月から6月にかけて、毎日のように食べることができました。ずっと同じ場所にあると生育が悪くなるので、何年かおきに移植していました。あるとき、ぼくがイタズラで深い穴を掘り、それを埋め戻したあとにイチゴを植えたら、とてつもない大きな実がなり、大喜びしたことがありました。
 初夏にはほかに何種類かの果物が食べられました。サクランボの木は1本しかなかったので、あまりたくさんは食べられませんでしたが、味はなかなかのもの。色は佐藤錦のような深紅にはならず、濃いピンクといったところでした。熊本では珍しかったようです。サクランボによく似たユスラウメもありました。直径1センチにも満たない小さな実ですが、酸味が少なくて薄甘く、とにかくびっしりなるので、色づき始めたらもう食べ放題。祖母は一部を塩漬けにしていましたが、梅干しそっくりの味がしました。普通のウメももちろんありました。収穫したものの大半は梅干しになり、一部が梅酒用。熟して落ちたやつを食べるのも好きでした。
 少し遅れてグミの実もなりました。母にはおなかをこわすから食べないようきつくいわれていましたが、赤い実の誘惑には勝てません。甘いだけでなく、なんともいえない酸味と渋味がありました。最近調べてみたら、抗酸化作用のあるリコペンという物質を含んでいるそうです。
 垣根の一部に木イチゴがびっしり生えていました。実はオレンジ色で、ラズベリーの仲間ではなかったかと思います。水分をたっぷり含み、甘くておいしかったこと。
 モモは木も若くて虫がつきやすく、あまりいい実はなりませんでしたが、煮て寒天で固めたおやつを母に作ってもらいました。忘れられない初夏の味です。そして、初夏の果物といえば、なんといってもビワ。うちでいちばん大きな木で、ふだんから木登りをするためにもなくてはならない木でした。実が熟れてくると、2メートルほどの竹の先を割り、細い木の枝を挟みこんだ道具を手に登ります。近いところは手を伸ばしてとり、枝の先にあるものはその道具でもぎります。格別な甘さでした。口の周りも手もベトベトになるくらいです。そして、おなかいっぱいになると下りるのです。ハハハ、サルみたいですね。ときどき近所の悪ガキどもが集まってきておねだりするので、鳥につつかれて穴があいたようなやつを上から放ってあげました。

■秋の朝はカキを食べることから始まりました
 真夏の果物はイチジク。最初はあのクセのある味が好きになれませんでしたが、ある時期から大好きになりました。十分に熟していないと生臭さがありますが、表面がぶよぶよになるほどに熟すまでじっと待つと、糖度が高まります。カナブンなどの昆虫が寄ってくるので競争です。食べきれないときにはジャムにしました。
 そして秋、フルーツ天国のわが家のクライマックスのシーズンです。「富有」という種類の甘柿が4本、渋柿も1本ありました。カキの木はビワなどとちがって木質が柔らかく折れやすいので、子どもでも登ってはいけないと言われていました。そこで、高いところになっているものは、ビワをとるときよりももっと長い、物干し竿みたいな道具でもぎ取ります。秋が深まり、空気がひんやりしてくるころに、実の赤味が増してきます。食べごろです。朝起きて顔を洗うと、朝食前にまず1個。勝手口を出てすぐの物置には、いつも包丁が1本置いてあり、それで皮をむくのです。冷たくて甘いカキがのどを通ると、身が引き締まりました。
 秋の果物ではザクロも楽しみでした。2本あって、大きな実がなりました。熟れてぱっくりと口をあけたのをもぎ取り、まるでルビーのような赤くて透明な粒が、びっしりと並んでいるところをはがして口に放りこみます。このとき渋皮をいっしょに入れないようにします。果汁を飲み込んだあと口に残った種は、そこらへんにペッペッと吐き出します、ですから、家の中では食べませんでした。ぼくはザクロの花と葉も大好きでした。もちろん見るのがですが…。
 わが家にはなぜか柑橘類はありませんでした。でも、知り合いのうちから夏みかんのようなものはもらえるし、一番近い友達のうちにはキンカンがあって、よく食べさせてもらいました。
 こんな暮らしで
住まいと裏の畑の間にあった柿の木。これはぼくが生まれて初めて撮った写真。父と姉2人、弟。
したから、八百屋や果物屋で買うのは夏はスイカ、秋・冬はミカンとリンゴくらいでしたかねえ。バナナなんて高くて買えませんから。
 そのようにして、昭和20年代から40年代の初めにかけて過ごしたわが家は、残念ながらもうありません。4車線の新しい国道ができたため、跡形なく消えてしまいました。ですから、別なところでもう一度あのころの暮らしをしてみたい、それがぼくの願いです。完全自給自足とまではいかなくても、自分が食べるもののせめて半分くらいは自分で作りたいのです。菜園とちょっとした果樹園。お茶の垣根。危機管理の意味合いもあります。食糧危機がきてもあたふたしないように。そのためにはいくらでも汗を流します。当初の計画では10年前にスタートしていたはずですが、いろいろな事情で遅れています。

もどる

Copyright 2000~ Mitsuhiro Yaeno. All rights reserved. 無断転載・複製禁止