■ヨウスケの毛がセーターや手袋に
 子どものころの記憶は3歳からありますから、たぶんそのころか少し前、戦後まもない昭和25年ごろのことです。わが家ではヒツジが飼われていました。彼の名前はヨウスケ。漢字で書くと「羊介」です。名付け親がだれだか、聞いたこともありませんでした。ぼくの頭の中では生まれながらにしてヨウスケであって、それ以外の何ものでもなかったからです。ミッキー・マウスと同じですね。
 でも、わが家におけるヨウスケの立場は微妙でした。ペットなのか家畜なのか…。名前があるからといって、呼び寄せてかわいがっていたいたわけでもないし、散歩に連れていくこともありませんでした。けれど、放し飼いではなく、ちゃんと屋根付きの小屋があって、えさも十分にあたえます。大事に育てていたのは確かですが、やはり、暮らしに役立つ家畜というべきでしょう。それはそれは、役に立ちましたよ。年に1回、春の終わりごろに毛を刈ります。専門の人が来て刈ってくれるのです。確か2人がかりでした。弟子らしい人がヨウスケをおさえ、親方が大きな手動のバリカンでごっそり毛を刈り取ります。ヨウスケはいつもおとなしくしていました。終わると体の大きさが半分になりました。
 刈り取ったばかりの毛はフワフワですが、油でベトベトしています。くさいです。それを何かに包んで、毛糸屋さんに持っていくと、きれいな色のついた毛糸と交換してくれるのです。母親について、何度も毛糸屋さんに行ったことがありました。帰ってくると必ずヨウスケのところに行って、えさをあげたり、塩をなめさせたりしていました。
 えさはトウモロコシをつぶしたものとか、穀類が主体でした。時期によっては野生のカラスムギやサツマイモの茎などもあげます。農家と話をつけてあったのでしょう。よその畑に行って、どこかで借りてきたリヤカーの荷台いっぱいにサツマイモの茎を積んで、帰ってきたことが何度もありました。これは乾燥させるといい保存食になります。
 母親は編み物が上手でした。ヨウスケ自身の毛ではなかったかもしれませんが、トウモロコシやカラスムギやサツマイモが化けた毛糸で、セーターや手袋を編んでくれました。小さくなると、いったんほどいて、作り直します。大事に大事に使いました。おかげで姉弟4人、冬を暖かく過ごすことができました。

■生み立ての卵のおいしかったこと
 ヨウスケはずいぶん長生きしたような気がします。年をとってきてきたころ、お乳をとるためのヤギと交換することになって、どこかに連れ去られました。ヤギがもの珍しかったため、あのときヨウスケに声をかけるのを忘れてしまったような…。申し訳なかったナ。
 そのヤギは病気で早く死んでしまいました。それから大型の動物を飼うことはありませんでしたが、ニワトリはいつも数羽、ヨウスケがいたころからずっと飼っていました。えさやりはおもに子どもの仕事で、ギシギシをとってきては刻んで米ぬかを混ぜてあ
たえ、アサリの貝殻をかなづちでつぶしてあ
昭和27年、5歳のころの筆者とヨウスケ。顔をカメラに向かせるために、サツマイモのつるで無理矢理引っ張っている。着ているカーディガンはもちろんヨウスケのたまもの。右手に握りしめているのは1円札5枚。これから大好きなかりんとうを買いに行くところ。
げていました。生み立ての卵のとがったところに針で穴をあけ、中身をチュウチュウ吸うのが楽しみでした。からの中に木灰を詰めて、忍者ごっこのときに使う目つぶし弾を作りました。
 ぼくの家は熊本市の郊外にあり、周りには畑が多く、最初に通った小学校の児童の8割くらいは農家の子でしたから、家畜のいる家はけっして珍しくありませんでした。たいていの農家には畑で鋤などを引かせる使役用の馬がいて、放課後、裸馬に乗って付近をうろうろする小学生もいました。垣根の上から「おうい」と声をかけられると、うらやましかったナ。こわくて、乗りたいとは思わなかったけど…。
 馬や牛は別格として、うちのような公務員やサラリーマンの家でも、ニワトリなどを飼うのは当たり前のことでした。

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