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■萩原翁が遺した我々へのメッセージ 作業こそ中断していたものの、気になって、私はその後も4、5年に1度は萩原翁を訪ねたり、金山跡へ登ったりしていた。現場は斜面の崩落が進んで、坑口をふさぐ土砂の量がどんどん増えているように思えた。 (このまま永遠に御用金を抱いた坑道は眠り続けるのだろうか…) 最初の探索から10年を経たころには、そう思い始めていた。しかし、再開の機会はやって来た。そのきっかけをつくったのはやはり萩原徴翁その人だった。 2006年8月、読売新聞の同行取材の際に泊まった民宿で萩原翁の訃報を聞く。2カ月ほど前のことで、享年86歳だったという。残念な気持ちでいっぱいになったが、実は萩原翁の最後のメッセージが遺されていたのだ。それを私が聞くのはそれから5カ月ほど後のことだった。 読売新聞の記事を読んで、今度はテレビ朝日の「スーパーモーニング」も同行取材を希望、同年10月に現地へ。それが放送されたのは翌年の1月で、放送を見た沼田の高橋喜久雄氏から久しぶりに電話がかかってきた。調査再開の意思を確認するためと、萩原翁のメッセージを伝えるためだ。 そのとき、私はまだ再開のプランを具体的に立てているわけではなかったが、資材の搬入ルートとして、隣接するスキー場が使えれば、なんとかなるかもしれないということだけ提案した。すると、高橋氏は確信に満ちた声で「金井沢はまちがいない。調査を再開しましょう」と言う。その裏付けが、知人を通じて高橋氏に伝えられた萩原翁最後のメッセージだった。その内容は… |
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昭和30年代の半ば、私は山仕事仲間のH氏とともに金山の坑道内に入り、徳川幕府の御用金の一部と思われる千両箱16個を発見した。それは、坑道の左奥の深い立て坑の底に置かれていた。1個を回収することに成功したが、仲間が誤って穴の底に落ち、どうしても助けることができなかった。遺体はそのままになっているので、彼の供養を頼みたい。そして、残り15個の千両箱を取り出して、世の中の役に立ててほしい。 | それまで聞いていた萩原翁の話はかなり断片的で、つじつまの合わない部分もあった。また、人から聞いた話なのか、自分が体験したことなのかがはっきりしない点もあった。最後のメッセージは、そういった疑問を氷解させるに十分な内容だったのだ。 |
金井沢金山の奥に、まちがいなく15個の千両箱がH氏の遺体とともに眠っている。私たちは調査再開を決意した。
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