すると、制作を担当する(株)いまじんのスタッフが、思いがけなく1936(昭和11)年に発行されたアメリカの雑誌 「MODERN MECHANIX」 の現物を手に入れてくれたのです。そこに掲載されている地図を見たとたん、私の体に電流が走りました。それまではむしろ懐疑的だったのですが、これはどう見ても宝島の地図としか考えられません。 先行して現地入りしたスタッフと連絡をとりあいながら、まず、地形の特徴がほんとうに一致しているかどうかを調べてもらいました。島の中央を南北に走る山脈、東海岸に発達したサンゴ礁、砂丘、ビロウ(ヤシ科の植物)の群生地、西海岸にあるラグーン(サンゴ礁の浅い海)など、すべて同じです。このような地形的特徴をもった島は、南西諸島ではほかに見当たりません。また、地図中に描き込まれた重要ポイントと思われる印が何を意味しているのか、聞き込みをしながら徹底的に調べてもらいました。その結果、キッドたちが上陸したと思われる地点と、そこからの足取りまで推定することができたのです。スタッフの興奮が私にも伝わってきました。 「こうなったら一日も早く現地へ行きたい!」 私の希望は、早くもそれから1週間後にはかなえられました。(大きいサイズのキッドの地図はこちら)
早速、注目すべき島の南部へ。最南端の荒木崎には白い灯台が建ち、バックには群青色の海。牧草地の緑と、隆起サンゴ礁が露出した茶色の岩山とのコントラストが美しい、一幅の絵のような風景が広がっています。 強烈な日差しを浴びながら3日間歩き回った結果、手応えは確信に近いものに変わっていきました。キッドの地図にある目印と、その欄外に書かれていた覚え書き風のメモの中のいくつかのキーワードのほとんどを、現地で見つけることができたのです。 まず、上陸地点からすぐのところに沢がありました。キッドがこの島にやってきた最大の目的は、財宝を隠すことだったでしょうが、水と食糧の補給も重要だったはずです。この場所を選んだのは、真水が得られることも理由の1つだったかもしれません。直線距離で 100m 強の短い沢を登り詰めると、現在は肉牛の放牧地となっている丘へと導かれます。そして、彼が “a range of hills” と表現した、うねうねと起伏の多い丘のど真ん中に、海上からでもよく目立つ大きな岩山があります。遠くから見ると、「あそこに登れば眺めがいいだろうな」と、誰でも考えそうな岩です。地図にもそれらしいマークがあり、宝を隠すのに適した場所を探すために、キッドがその岩に登った可能性は大といえます。 それだけではありません。私はそこに登れば見えるはずの“あるもの”の見当がついていました。それは島の南西部の海岸にある大きな岩です。3個あり、1つは海岸から200mほど離れた海中から突き出ていて、その名も舞立(むうたち)。高さは30mは優にあります。海岸にそびえるのが二双(ふたまた)とすったち。いずれも20~30mあり、西側から島に近づけば必ず目につきます。二双だけは風化して先端が角張っていますが、かつてはあとの2つと同じようにとがっていたと想像されます。それぞれは数百メートル離れて存在するのですが、岩山に登れば、3つが至近の距離にかたまって見え、何かを暗示するのではないかと考えたのです。 この3つの岩が気になったのは、第一に、目印になりやすいこと。そして、覚え書きにある“triangles(三角形/※複数形)”の意味するものに最も近い気がしたからです。 胸をワクワクさせながら、私は岩山へ登りました。すると予想していた通り、離れた3つの岩が1カ所に重なり合うように見えました。そして、その方向をじっと見つめていると、眼下に1つの大きな岩があることに気がつきました。 「あそこから見ると、3つの岩がもっときれいに見えるにちがいない」 思った通りでした。3つが等間隔に並び、岩の先端がほぼ一直線上にあります。 「なるほど、三角の岩が3つで大きな三角形を作っているんだ!」
「ということは、最終地点に導く基点の“Rock(岩)”が、今登っているこの岩ではないか!」 さらに、その岩から三角岩を望むエリアの、岩から10数メートルの距離に、1本のビロウの大木が…。高さ2、30mの切り立った崖の上端から空に向かって葉を広げています。 「これが第2の基点の“Palm(ヤシ)”か!」 島の古老に聞くと、ビロウの寿命は、だいたい300年くらいとか。ですから、この木がキッドが来たころから目印になるほど大きかったはずはありませんが、古木が枯れると同じところから若い木が生えてくるそうで、きっと世代交代しているのでしょう。 材料はそろいました。地図の片隅にある、 18NE: by 71W: on Rock 26ENE: by 18SW: Palm の通りにたどっていけば、“7 feet by 7 feet by 8…”すなわち、2.1×2.1×2.4mのサイズの宝庫に行き着くはずです。 最後まで解釈に手こずったのが2つありました。1つは、地図中にある“Death Valley(死の谷)”です。上陸地点から丘までの沢沿いのルートが、場所的には一致しそうですが、ハブの巣窟ではあるものの、「死の谷」という表現はちょっと大げさすぎます。もしかしたら、南部の海岸には隆起したサンゴ礁の間から熔岩が噴き出したあとがありますから、300年前くらいまで、火山性のガスが噴き出していて、この付近が「死の谷」と呼ぶにふさわしい景観をもっていたのかもしれません。 また、島の人が“西の田ん尻(にしのたんしり)”と呼んでいる場所が、地図の“Death Valley”に近く、音も「死の谷」に似ていて、しかも自然にできた洞窟もあるということで、案内してもらって出かけましたが、洞窟は海岸に近く、高波が来たらかぶりそうですし、そんなところに財宝を隠すとは思えませんでした。 もう1つは、覚え書きにあった“stakes in a lake(湖の中の杭)”の意味です。宝島には湖といえるような場所はないので、さんざん考えたあげく、次のような結論に達しました。三角形を作る3つの岩は、満潮時には水中から突き出た杭のように見えます。そこで、そのように表現したのではないでしょうか。もしかしたら、キッドが暮らしたスコットランドかアメリカ・ニューヨーク州のどこかに、それに似たような印象的な場所があり、キッドの生活史の中の1つの原風景として、脳裏に焼きついていたのかもしれません。 いずれにしても、はっきり言えるのは、地図や覚え書きを残したのはごく近い将来、財宝を回収するために島を再訪する自分自身のためであったということです。遠い将来の他人のために残したのではけっしてありません。ですから、自分自身がその場所にまちがいなくたどり着くことができればいいわけで、そのためのはっきりした目印を必要としたのです。 |
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